丸山真男の文章に「であることとすること」と言うものがある。まずは書き出してみることとする。中学生用の学習テキストにのっている抜粋なので、抄訳のようなものになるが、現在の日本の有権者の態度への警鐘となっているので、心ある方々には時代を超えてかみしめて読んでいただきたいものである。


「丸山 真男 『日本の思想』より
 であることとすること(一部)

 学生時代に末広厳太郎先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん非人情の話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上に眠る者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには、債権を喪失するというロジックの中には、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。

 たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには、「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって、投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読み取ることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干も読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態がおこるぞ」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。

 アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自由があることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポににっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とか言うものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全にすごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはなだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。





まずは、日本国憲法の第十二条にあるように、現行憲法は「国民の不断の努力によって」守られなければならない。現在世界の憲法の中で最も先進的だといわれている日本国憲法も、その国民が守ろうとしなければ守ることができないのである。愚かな政権によって踏みにじられてれいる世界で最も進んだ憲法は、その政権を生んだ愚かな国民によって幕を閉じようとしているのか、愚かな国民が目覚めて、その政府に憲法を守らせるように働きかけられるのか、今、日本国民の知性が問われている。



 しかし状況はとても厳しいといわざるをえないだろう。国政選挙や地方選挙での投票率が50%を切る政治参加率の低さに加え、政権批判を自粛する情けないメディアをも糾弾することのできない、権力の下に土下座する国民性によって、有権者自らが立憲主義や民主主義を捨て去る政権を援護している。まさに現在の日本国民は、「主権者であることに安住して」いる。したがって、「それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで」の歴史を忘れ、ナチスが政権を取った過程を研究して、政権基盤の強化を図る独裁政権を目指す自民党の政策を見てみぬ振りをしている。いや、見ても、その国民のシチズンシップ・政治感覚の欠落により、時事のニュースで何が起こっているのかが理解できないほど知性が退廃しているのではないだろうか。




 国の政治を国民のものとするためには、国民自らが「置物のようにそこにあるのではなく、」自らのために政治が行われるために、「現実の行使によって」政府に、国民のための政治を求めていかなければならない。それができなければ、どれだけすばらしい憲法を保持していようとも、その憲法を正しく政府に対して運用させることはできない。

 憲法学者が、現在の日本は憲法停止状態だというように、人類史の最先端の憲法を持ちながら、70年前の軍事独裁政権を呼び戻そうとする残念な日本国民のひとりとして、憲法記念日に、その憂慮を書き連ねるものである。

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