へっぶしんのニュースや日記です。

 先日紹介した「ラディカル・デモクラシー(ダグラス・スミス)」を読んでいるが、楽しくて仕方がない。そこで書評は書かないといったが、興味深い個所を取り上げて考察を加えることにする。あくまでも断片的なトピックを取り上げるため、本書の全体的な内容がわかるようにはならないことを最初にことわっておく。

 まだまだ第一章が終わらないのだが、民主主義という言葉が権力者達に都合のよいように使われ、言葉本来の意味を失っているかということを実証しながら問題の提起が行われている。

 第一章 ラディカル・デモクラシー 名称の修正が必要なわけ(P29)

「人民(ピープル)を再定義する(a)」
 民主主義はふつう人民(ピープル)による統治と定義される。これをラディカルな意味に解することを免れる古典的方法として、奴隷と女性、異人種、貧乏人、ある種の他集団を「ピープル」から除外してその意味を狭めると言うやり方がある。どこの国であれ中産階級や上層階級が「ピープルズ・パワー」を支持するとき、その「ピープル」とは彼ら自信を意味すると相場が決まっている。彼らが民主主義を要求しても、召使いや労働者を供給してくれる階級、自分達の富や社会的地位の拠り所である剰余を生み出す階級に権力を取れとよびかけているわけではない。
 しかし、いうまでもなく民主主義(デモクラシー)の「デモス」とはもともと市民の中でもっとも貧しい、もっとも数の多い階級を意味したのであり、その当初の意味において民主主義とはその階級による支配を意味したのである。中産階級による支配は、その善し悪しは別として民主主義ではなく中産階級支配と、その内容通りに呼ばれるべきである。

 民主主義という言葉は歴史的に見て、酷使され、手垢にまみれ、本来の意味を失っていたかを、はっと思い出せる力のある文章だ。普通に民主主義という言葉を使うときに、「人民(ピープル)による統治」と、置き換えたときに意味の通じる場合がどれだけあるか疑問だ。そして権力者達によって歪められてる民主主義という言葉をもう一度、本来的な意味として捕らえなおす必要性を意識せざるを得なくなる。

「人民(ピープル)を再定義する(b)」
 支配政党や政権を目指す政党は、「ピープル」を「その政党の支持者」であると再定義して民主的であることを自ら実証しようとすることがある。「ピープル」はイデオロギー的概念となり、そのイデオロギーを受け入れない人々は範疇に入れないのである。「ピープルの敵」とみれられるか、あるいは単に目に見えない、なきに等しい存在になることもある。政府を支持するほんの一握りの少数集団を「ピープルの真のスポークスマン」だと称する独裁政権にこれを見ることが出来る。これはせいぜい数十か数百のデモに「ピープルによる抗議行動」という見出しをつけて報じる野党の機関紙にも当てはまる。

 今の小泉政権に当てはめると、笑ってしまうくらい文中に登場する独裁政権の性質と一致してしまう。小泉首相に読んでもらいたい文章だ。現実を見ると、小泉政権の新自由主義路線を支持しているのはほんの一握りの集団であり、残りの大多数は新自由主義という概念すらわからずイメージだけで支持しているのではないか。客観的に見ると、民主制度いう仮面をかぶった国家が日本であり、小泉内閣であることに気付かされる。そして、民主主義をまっとうに履行している国家など全世界を見渡しても存在していないことにも気付かされる。

「人民(ピープル)を再定義する(c)」
 そのバリエーションとして、ピープルが正しい意識を持ちさえすればこう考えるはずだとか、そう考えるべきだという立場を代表するのがわが党であると、自負する場合もある。政治教育を試みるという立場に立てばなにも悪いことではない。問題が生じるのは、「ピープル」が生身の人間ではなく理論的な抽象でしかないところで、みずからをピープルの権威を後ろ盾とした政党、ピープルの真の声を代弁する政党として登場するときである。そうした政党が政権を取っても、ピープルが政権を取ったことにはならない。

 これも民主主義を装うどこの国でも同じだ。常日頃から、「民主主義=人民(ピープル)による統治」だということを理解しなおし、国民として民主主義を勝ち取るために政治に関与していかなければならないのではないか。(しかしながらこの意味での政治への関与は単なる庶民の我々では、選挙に行くというくらいしか関与のしようがないのも事実だが。。。)

是非是非のお勧め本です。

すきやすきや
大新聞不読
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