へっぶしんのニュースや日記

格差社会に疑問を感じながら日々を過ごしています。 まともに働いても給料が減り続けるので、副業で投資をして資産を築こうと株と投資信託、FXをしています。 趣味の読書とアイネット証券のループイフダンの日々の成績について書いていきます。

2014年05月

安倍首相の統治機構の理解

 私なりに安倍首相が考えていると思われる日本の統治機構を妄想してみました。
無題





















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原発運転差し止め訴訟(読売(ゴミ売り)社説)

 今日は読売社説から。世間の一部の人たち(私も含む)はゴミ売りと言っているが、このような社説を書くからそういわれるのではないだろうか。
大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決
2014年05月22日 01時25分
「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。
 定期検査のため停止している関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。
 判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱ぜいじゃくなもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。
 「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも一方的に断じた。
 昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
 判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
 非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。

 大飯原発は、福島第一原発事故を受けて国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で2012年7月に再稼働した。順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
 関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
 別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
 規制委の安全審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。常識的な判断である。
 最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
 原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。
 福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。関電は控訴する方針だ。上級審には合理的な判断を求めたい。
2014年05月22日 01時25分 Copyright c The Yomiuri Shimbun
1点目、「「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」だと一方的に断じた。」
 「一方的に断じた」ということは、別の考え方が存在するのだろうか。事故の原因がわからない状態で作った安全基準に正当性などありえない。したがって「新たな規制基準」が妥当なものかどうかすら、現時点では判断できない。わからないものを断言して、安全だと強弁する。この甘い想定が福島第一原発の事故につながったのではないか。この文意に従えば、第二の安全神話に適合しないから「科学的知見にも乏しい。」ということになる。さらに「いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる証拠はない」と強調した点も、理解しがたい」と、また断じている。貞観大津波が空想的だといって、安全対策を怠ったために予想できた津波に対して想定外の津波だといって右往左往したのではないのか。未だに事故原因の究明ができていないので、全電源喪失の原因は地震の可能性も残っている。有史にある津波すら「非現実的な考え方」として、安全対策をしていなかったのだが、「新たな規制基準」では大丈夫なのだろうか。繰り返すが、事故原因が特定できていない状況で作成したものである。個人的には、福島第一原発の事故を繰り返すような甘い想定だとしか思えない。全電源喪失という事態すら、ありえないといっていたのだから。
 極めつけは、福島第一原発事故発生の前に出た、 「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。」という最高裁高裁判決の引用だ。嘲笑するしかない。今回の原発運転差し止め判決は、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要」という部分を専門家に丸投げしてしまった司法府の反省として出たものに他ならないだろうし、そう信じたい。「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断」によって起きてしまった事故の反省から出たと思われる、今回の判決にを不合理だと正している読売の主張だた、逆に読売の主張のどこが合理的なのかを聞きたい。
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<珍説>八木秀次の立憲主義論、やっぱり歴史修正主義

またもや産経の珍説。日本の伝統が大事だといいながら今上天皇が政権批判をしているという珍妙な言説を繰り広げる八木教授。以下、珍説を検証する。
「国民の憲法」1年 広がる奇妙な改正反対論を正す
2014.5.8 03:14 (1/4ページ)[憲法改正]
 □麗澤大学教授・八木秀次
 理科系の研究倫理が問題となっているが、文科系も大いに問題だ。ここでは憲法に関わる、メディアや識者の間に広がっている奇妙な理屈を取り上げてみよう。
 4月15日付朝日新聞社会面に、若手弁護士らが「おいしく、ゆるーく憲法を知ろう」と飲食店などで憲法の出前講座を開いているとする写真入りの大きな記事が掲載されている。
 ≪権力縛るためだけにあらず≫
 記事は、女性弁護士が憲法とは「国家権力の乱用を抑制し国民を守るもので、国民が守らないといけない法律とは違うんですよ」と説明すると、参加者は「へぇー」とうなずいたとし、友人と参加した40代のパート勤務の女性の「憲法と法律の違いもわからなかった」との感想を紹介している。次いで、活動の事務局長を務める女性弁護士の、きっかけは一昨年4月に発表された自民党の憲法改正草案で、「国家権力を縛るためのもの」と教わった憲法が「国民を縛るためのもの」に変わってしまうという危機感を抱いたことにあったとする発言を紹介している。
 憲法は「国家権力を縛るもの」で、「国民を縛るためのもの」ではない−この種の憲法観がここ数年、静かに広がっている。
 出処は弁護士の伊藤真氏らの主張のようで、同氏の『憲法は誰のもの?−−自民党改憲案の検証』(岩波ブックレット、2013年)は、「憲法とは、人権を守るために国家権力を縛るための法です」とし、「だからこそ、現行憲法99条は、公務員だけに『憲法尊重擁護義務』を課しています」としながら、「その半面、現行憲法はそれ(憲法尊重擁護義務)を国民には課しません。国民はむしろ『憲法を守らせる側』にいるからです。国民は憲法を守らせる側であって、守る側ではない、というのが、立憲主義なのです」と述べている。同書は表紙に「立憲主義を見失った改憲論議は、危うい」とも書いている。
 ≪国民に尊重・擁護義務あり≫
 しかし、東大法学部教員による解説書(『註解日本国憲法 下』有斐閣、1954年)は、憲法99条が国民の憲法尊重擁護義務を明記していない点について、「国民のこの憲法を遵守する義務を否定したのでないことは、言を俟(ま)たない」と指摘し、「(憲法の)制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺行為といわねばならないであろう」と断じている。
 国民にも憲法尊重擁護義務は課されているのであり、その意味で憲法は「国民を縛るためのもの」でもある。納税、保護する子女に普通教育を与える、勤労といった義務を国民に課して縛ってもいる。伊藤氏らの主張では、日本国憲法は「憲法」ではなく「立憲主義」に反しはしないか。
 憲法を「国家権力を縛るためのもの」とする考えは、近代初期の「近代立憲主義」と呼ばれるもので、国家の役割を制限することで国民の自由・権利を保障していくという夜警国家、「小さな政府」時代の産物だ。しかし、その後、選挙権が拡大して国家が大衆の要求に応ずる必要が生じ、近代憲法の保障する人権が単に形式的な自由と平等を保障するにとどまり、真に人間らしい生活を保障する役割を果たしていないとの主張を社会主義思想が広めるに従って、国家の役割も憲法観も大きく変わっていった(長谷部恭男著『憲法』新世社、1996年参照)。
 ≪「反知性主義」はどちらか≫
 ドイツのワイマール憲法、フランスの第4共和政憲法など第一次世界大戦以降の各国の憲法では、労働基本権や最低生活の保障、勤労権、教育権など、その実現のため国家の積極的な介入を要求するような権利がうたわれるようになった。国家権力を縛るのではなく、逆に活用して国民の福祉を図るという考えになったのだ。
 これは福祉国家を目指す考え方で、「現代立憲主義」と呼ばれている。日本国憲法も基本的にこの考えに立脚し、最高裁も「憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定している」(小売市場事件判決、昭和47年11月)と判示している。
 以上は、これまであまりに当然のこととされてきた説明だが、奇妙なのは、にもかかわらず、「憲法は国家権力を縛るためのもの」とする理屈がメディアや識者に広がり、一定の影響力を持ちつつあることだ。しかも、「上から目線」で安倍晋三首相や自民党は「憲法が何たるか分かっていない」だの、「反知性主義」だのと批判している。
 しかし、そう主張する人たちは一方で、社会主義を信奉したり、「格差社会」をもたらした、と「小さな政府」論を批判してきてはいなかったか。「反知性主義」はどちらの方なのか。言論の倫理に関わる問題でもある。(やぎ ひでつぐ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140508/plc14050803140005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140508/plc14050803140005-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140508/plc14050803140005-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140508/plc14050803140005-n4.htm
≪権力縛るためだけにあらず≫
ここは、見出しと内容がおかしい。本文中は立憲主義を正しく説明しており、憲法は権力を縛るためのもだと説明している。見出しではそれに対しての批判が書かれなければならないのだが、ここでは批判が一切ない。この本文であれば、憲法は、政府を国民が縛るためのものとするのが適当ではないか。この学者は、見出しの付け方を知らないのか。あるいは、故意に見出しと内容を反転させることで、あたかも本文が間違いであるかのような印象を植え付けたいのだろうか。本文の内容は、憲法学の基本中の基本の学説であり、憲法の最高法規範・立憲主義の説明として適切である。伊藤弁護士独自の説でもなんでもない。芦辺憲法を引用すると、
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『憲法 第四版』 芦辺信喜
 ロック・ルソーの自然権思想  この思想《勝手に注w→自然権思想のこと》によれば、/祐屬論犬泙譴覆らにして自由かつ平等であり、生来の権利(自然権)をもっている、△修亮然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する、そして、政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。P.6
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となっており、立憲主義の淵源は、個人が生まれながらに持っている法規範よりも上位に位置する自然権を、政府が勝手に制限することができない権利とする思想である。
 ≪国民に尊重・擁護義務あり≫
 長谷部恭男の理論を捻じ曲げて解釈している。さらには、憲法に書かれている国民の義務すらわざと誤読(ミスリード)し、立憲主義に依拠する現代の先進国の憲法の根本的な内容を珍妙に解釈している。国民の三大義務は人権を守るためのもので、立憲主義ではこの義務を国民が政府に守らせるようにすることが肝要なのだ。
納税の義務ですら、国民 が政府に対して、国民に守らせるようにすべきものである。したがって、政府が国民を縛って義務を課してよいということではない。勤労の義務は、国民に労働を強制することではなく、政府に労働基本権を守らせるものと一体となった権利の裏側にある義務に他ならず、労働の権利により国民が政府に雇用を創出する努力する義務を課すのほうが大事なのである。子女に教育を与える義務も、基本的人権を保障するための教育の重要性の発露に他ならず、政府が恣意的に国民に義務を課してよいとする論拠になるはずがない。内容を見ずに、外観だけのうわべ読みをわざとしているところに底知れぬ悪意を感じる。
 以上の説明から、この見出しの二段落の中心文となる「日本国憲法は「憲法」ではなく「立憲主義」に反しはしないか。」という文が、意味不明かつ珍妙な説であることがご理解いただけるであろう。
 三段落では、さらなるわざとする誤読を展開している。小さな政府(夜警国家)から福祉国家への理論的転換で起こった議論は、無制限の自由は格差の拡大を招くため、基本的人権の保障が不十分になるというものだった。あたかも、政府が恣意的に国民を義務で縛ってよくなったかのような印象を与える印象を持たせる書き方をしている。繰り返すが、「国家の役割も憲法観も大きく変わったいった」のは、個人の自由・権利を保障するためである。
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前掲『憲法 第四版』芦辺信善
P.16-P.17 4.立憲主義の現代的意義 (1)立憲主義と社会国家
 立憲主義は、国家は国民生活にみだりに介入すべきではないという消極的な権力観を前提としている。そこで、国家による社会への積極的な介入を認める社会国家思想が、立憲主義と矛盾しないかが問題となる。しかし、立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障にあるのであるから、その目的を現実の生活において実現しようとする社会国家の思想とは基本的に一致すると考えるべきである。この意味において、社会国家思想と(実質的)法治国家思想とは両立する。戦後ドイツで用いられてきた【社会的法治国家」という概念は、その趣旨である。
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これが全てではないだろうか。もう20年前に決着している話を次の見出しで蒸し返しているが、歴史修正主義者の特徴として、決着した議論の蒸し返しがあげられる。それを反知性主義というのだが、《反知性主義はどちらか》、この文が反知性的であることに論をまたない。


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戦争ごっこ

 集団的自衛権を憲法解釈によって容認しようとしているてんぷら野郎。しかし、それがいかにゴッコあそびかということを認識がどこまで共通化されているだろうか。ほとんどの一般認識は、なんとなく首相が言っているから仕方がないのかなといった印象を持っているだけではないだろうか。集団的自衛権については、前述しているのでここでは繰り返さない。さて、現在の政権が、日本国憲法の柱のひとつである平和主義を捨て去り、戦争を可能にして暴力によって他国を脅す外交をする政府を目指していることは周知の事実である。少なくとも、海外の政府関係者の間でははっきりとそのように認識されている。
 そこで、本当に戦争することを想定して、現在の憲法を踏みにじり、立憲主義を捨て去り、政治体制の後進化を成し遂げようとしているのかを少し考えてみたい。国内の政治的な問題は、国体を変える政変騒動だけではない。TPPとも密接に関連することだが、食料政策はどうなっているのか。

以下、抜粋。
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全国農業協同組合連合会によると、

食料自給率(カロリーベース)は39%(2012年)まで落ち込んでいます。さらにTPPに加入すれば13%にまで下がるという試算(農水省)も出ています。

食料自給率39%は最低水準

日本の食料自給率は2009年で40%、2012年には39%と主要先進国の中でも最低の水準です。1960年には79%あった自給率が、半世紀ほどの間で半減してしまい ました。

この原因としてあげられるのが、米の消費が減り、肉類や油脂をたくさん使う料理を食べるようになった「食の欧米化」です。さらに「外食」が増えたことなど、日本人の食生活の変化が自給率に大きく影響しています。

とくに肉類や牛乳・卵など畜産物は飼料のほとんどを輸入に頼っているため、国産でも自給率は極端に低くなってしまいます。

ちなみに今日のごはんは何を食べましたか?かつ丼の食料自給率は46%、ラーメンは10%、スパゲティ(ナポリタン)13%、豚しょうが焼きは11%という自給率です。国産でまかなえるごはんが入ると自給率はグッとUPしますね。

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と、このように2013年には、食料自給率が39%になっている。本気で他国と戦争をしようとしているのだろうか。そもそも、戦争をするということは、他国に攻め入ることだけではない。何もしなければ生まれようのない日本への反感、さらには憎悪を他国の人間に対して植えつけることになる。場合によっては、日本が攻められる側になることだってある。
 もし仮に、日本が攻められ、海上封鎖をされた場合には、戦争の遂行などできるはずもないことがおわかりいただけるだろうか。大日本帝国軍もそうであったが、戦争をする場合の補給ということを、政府上層部は微塵も考えていないということの証左ではないだろうか。太平洋戦争時の大日本帝国軍の海外での蛮行は、補給計画のずさんさが一因となっている。軍隊が出征先で食料を現地調達するという、ありえないずさんな計画を行った。盗賊と変わらない軍隊。そのために、現在にも語り継がれ、政治的にも尾を引く数々の蛮行の引き金になった。
 このように、食料政策ひとつとっても、39%という低い食料自給率をさらに下げるTPPの合意・施行を目指す政策をとりながら、戦争ができる国を目指している。やっていることが支離滅裂である。したがって、まったく一貫性を見出せない政策しか行えない現政権は、行き当たりばったりの単なるおぼっちゃまたちの政治ゴッコ以外の何者でもない。このような国民に対しても、海外に対しても害虫のような存在の政権はさっさと政治の場から退場してもらいたい。しかしながら、自民党を政権政党に押し上げたのは、ほかならぬ日本国民である。無能な政府に退場を迫るためにも、有権者の正しい判断を期待したい。

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捏造大好きな産経新聞、科学的な態度が皆無

 昨日、投票率の下限の定めのない問題だらけの国民投票法が可決されたが、そのスピンアウトを狙いながらも、本気で福島の原発事故の火消しに躍起な政府と、ネトウヨのご用達である産経新聞。記事を出すたびに世間に恥をさらし続けているわけだが、科学的な態度にも問題がある。この新聞は、体裁だけを一般紙にまねたゴシップ紙なのだろうか。
 科学的な態度というのは、たとえば、幽霊は存在するかという問いですぐにわかる。存在を証明できているのであれば、存在するが正解になる。目の前に呼び出すことに成功すれば、証明の完了である。では、ないことの証明はどうすればよいのだろうか。これは、それぞれの事象が、幽霊ではなく別のものであることを証明できればそれでよい。悪魔の証明といわれており、幽霊には様々な形態があるので、全てつぶさなければならないので、ないことの証明はとてつもなく困難である。したがって、幽霊を呼び出すことに成功していない、全ての事象について否定できていない場合は、わからない、というべきである。これが、真摯な科学的態度というものである。
 さて、産経さんは、「美味しんぼの鼻血の描写」は、科学的根拠がないと言い切っている。低線量の内部被曝に関しては、人体に様々な箇所が少しずつ破壊されるので、鼻血の原因となる様々な事象をしらみつぶしに調査し、全てが関係ないという証明が必要になる。そこまで、調べたのだろうか。関係ないと言っている学者を連れてきて、そう言わせているだけではないだろうか。また、実際に描写が事実であるのかどうかについても、調べているのだろうか。福島原発でばら撒かれた放射が蓄積している、低線量被曝をし続けている人たちを取材した上で、そのような人はいないといっているのだろうか。

 福島のかたの国会での証言。http://www.youtube.com/watch?v=k7kZRRkR6Xg

 放射能との関連は不明だが、福島の子供たちが震災後に突然鼻血を出すことは事実のようだ。したがって、美味しんぼで問題になる前から、福島や原発近辺に住まれている方々が鼻血で悩んでいることを否定することは誰にもできない。また、専門家の中には、低線量被曝と鼻血の関連性を指摘する医療の専門家すら存在する。自信をもって、低線量被曝と鼻血は関係ないと言い切っている専門家は、どこまで理論的な反論をつぶせているのだろうか。声高に叫んでいるだけでないことを祈る。
 ここまで述べてきたように、低線量被曝と鼻血の関係を否定することは容易ではない。また、過去の事例と今回の福島の事例において、鼻血に関しては地域的に特殊で特徴的に現れている事象である。したがって、関連性に関しては、あると考えて調査すべきではないだろうか。今の段階では、わからないことを調べもせずにないと決め付ける、科学的な態度が皆無の宗教の信者みたいな態度はいかがなものか。

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http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140513/dst14051312110006-n1.htm

閣僚から批判相次ぐ 復興相「風評被害招く」
2014.5.13 12:11
12日発売の小学館「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載された漫画「美味しんぼ」の一場面(宮崎瑞穂撮影)

12日発売の小学館「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載された漫画「美味しんぼ」の一場面(宮崎瑞穂撮影)

 小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」の漫画「美味しんぼ」で主人公らが東京電力福島第1原発を訪問後に鼻血を出すなどの描写があった問題について13日、閣僚から批判が相次いだ。

 根本匠復興相は記者会見で「漫画とはいえ、地元の不安や風評被害を招きかねない内容で、誠に遺憾だ」と述べ、「今後も関係省庁や自治体との連携を密にしながら、不安の払拭に努めたい」と強調した。

 太田昭宏国土交通相は「言論の自由は大事だが、福島に住んでいる人の心情を理解する必要がある」と指摘。下村博文文部科学相は「被曝の影響については、科学的知見に基づいて伝えることが重要だ。風評被害が広がらないよう文科省としても説明していきたい」と述べた。

改憲したい人の恥ずかしい珍説

 昨日は、憲法記念日。産経さんは、現行憲法の中身というか、憲法そのものの理解がないようだ。その無理解を世にさらしたいらしく、とてつもなく恥ずかしい新憲法案を独自に作成しているが、この記事も見出しからして赤面ものだ。
 「護憲植えつけた」という表現で、基礎知識の不足を暴露している。憲法とは現在の日本国家の最上位にある法規範である。法律を遵守すべき人々(全日本国民)、特に法律を遵守しなければならない人々(公務員:総理大臣・国会議員を含む)が、最高法規として法律の上位にある憲法を守るのは当然のことだ。特に、内閣総理大臣・国会議員を含む公務員には、憲法遵守義務が課されている。日本国籍を持つ者ならば憲法を守ることが当然であり、護憲という考え方は、あえて言う必要のない至極当然のことである。それを「植えつけた」という否定的な表現をとる言論機関とはいかがなものか。そもそも、憲法を守る意思のないことを表明するということは、クーデターを扇動することを目的とする言論機関ということになるのではないだろうか。下手をしたら、「公共の福祉」に反する可能性すら出てくる。上記の表現だけをとっても、間違いなく反政府的な言論機関であると言える。
 次に、文中の「憲法は神聖にして侵してはいけない」という意味不明の表現だ。国民主権原理に照らすと、国民の責務は「政府に憲法を守らせること」にある。「侵してはいけない」とは、いったいどういうことなのだろうか。クーデターを扇動する言論機関を分析するために、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という、憲法の三大原則について上記の表現で、書き換えてみる。
 ・国民主権は神聖にして侵してはいけない
 ・基本的人権は神聖にして侵してはいけない
 ・平和主義は神聖にして侵してはいけない
 これを政府に守らせようとすることが、そこまでおかしいことなのだろうか。上記の三点の記述を見て、違和感を覚える人間がいるだろうか。当然のことではないか。さらに、記事にある表現を、憲法の三大原則に当てはめて書き換えてみる。これは、「憲法は」という主語をその三大原則に具体的に書き換えるだけ、つまり抽象語を具体的な言葉に置き換える作業である。したがって、なんら発言者の意図を変えることにはならないことを付け加えておく。むしろ、論者の意図を具体化するための作業である。

「 『国民主権は神聖にして侵してはいけない、基本的人権は神聖にして侵してはいけない、平和主義は神聖にして侵してはいけない』という考えを植えつけたのは朝日新聞だ。」

 どうだろうか。事実誤認もはなはだしいし、憲法に謳われている三大原則は、学校教育の場でも、裁判の場でも当然に意識的に植えつけている。朝日新聞だけがやっているわけではない。現在の日本国家の柱となる理念だから当然である。百田氏は、国民主権も、基本的人権の尊重も、平和主義もおかしなものだと表明している。学校もおかしいし、裁判所もおかしいし、さらには、法律を守ることはおかしいし現在の政府は倒すべき対象だということにならないか。法律の上位に位置する憲法を全否定しているのから、そこまで言われても仕方がないのではないだろうか。下記の産経の記事は、とてつもなく反政府的な記事であることをご理解いただけただろうか。


憲法フォーラム出席の百田尚樹氏 「護憲植え付けたのは朝日」「NHKにややこしいのがいる」
「永遠の0(ゼロ)」などの著作で知られる作家でNHK経営委員の百田尚樹氏が3日、都内で開かれた公開憲法フォーラムに出席し、改憲に慎重な朝日新聞を重ねて批判した。「『憲法は神聖にして侵してはいけない』という考えを植え付けたのは朝日新聞だ。憲法とは世界の状況や生活様式の変化によって変えていくものだ」と述べた。  このほか、百田氏の歴史認識をめぐる発言を理由にケネディ駐日米大使がNHKの取材を拒否したと共同通信が報じたことに対し「大嘘だ。NHKの中にややこしいのがいる。そういうのが共同の記者に語ったらしい」と不満を爆発させた。

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