今、NHKのクローズアップ現代の出生前診断についての番組を見ている。正直、見ていて気分が悪くなった。私自身は、男であり、子供を産むことができない。しかし、娘を持ち、娘の母親である妻を見ていると、子供を持つことは人間の根本的な幸せであると実感している。
さて、出生前診断だが、私の娘は健常児として生まれたが、そもそも妻が妊娠して出産に至るまでに性別判定すらしなかった。まして、障害の有無を考えることもしなかった。生まれる前に調べるという行為自体が感覚的に受け入れられなかったからだ。そうはいっても、現在の日本の政治を考えると、障害児の親になるということは、親自身が社会的にハンディキャップを負うことになる。それは、今の自民党政権が、障害児は社会のハンディキャップだと考えており、その子供・親に対する保護を社会の負担だと考えているからだ。しかしながら、生まれてくる障害児は当然に命を持っているのであり、障害の有無でその重さを選別されるべきでない。さらに、個人的な経験ではあるが、特別支援学校でサポートをしたことがある。そのときに会った重度の障害をもった子供の母親たちはとても明るく、心の内の悩みを顔に出さず、学校の先生とともに子供成長を喜ぶ生き様を見せてくれた。決して毎日がばら色でもなく、悩むことも多く、子供にかける時間や労力はとても重いことが想定されるが、けして暗い顔はしていなかった。
ここからは推論をすることしかできないが、今のような資本主義を極めんとする市場原理社会では、知らず知らずのうちに命に値段をつけているのではないだろうか。自らの年収や生命保険の額、資産の額などなど。しかし、重度の障害を持っている人間は、当然にそのような市場原理主義社会には適合しない。むしろ、市場原理主義の社会においては、存在自体がマイナスだ。それでも、人として生命をもっている。だから、生きているだけで尊いということを実感できるのは、そのような子供の親だけではないだろうか。特別支援学校に行ったときにそのように感じた。
だから、女性が妊娠したときに、生まれる前に障害を持っているかどうかを判断すべきではないのではないか。命の尊さを、障害の有無で判断すべきではないのではないか。そのように考えると、生まれる前に、傷害の有無で出産の判断をするということに、おぞましさを感じた。命を選別するということに、拒否感を覚えた。命を、目先の経済的な価値観に基づいて判断することに疑問を感じた。大切なのことは、たとえ障害をもった人間であっても、人間らしく、人として人生を全うできる社会を作り上げていくことではないだろうか。障害者を差別し、隔離し、国の財政の負担であるという判断をする基準が間違っているのではないだろうか。
以上が、私が感じた違和感である。
さて、出生前診断だが、私の娘は健常児として生まれたが、そもそも妻が妊娠して出産に至るまでに性別判定すらしなかった。まして、障害の有無を考えることもしなかった。生まれる前に調べるという行為自体が感覚的に受け入れられなかったからだ。そうはいっても、現在の日本の政治を考えると、障害児の親になるということは、親自身が社会的にハンディキャップを負うことになる。それは、今の自民党政権が、障害児は社会のハンディキャップだと考えており、その子供・親に対する保護を社会の負担だと考えているからだ。しかしながら、生まれてくる障害児は当然に命を持っているのであり、障害の有無でその重さを選別されるべきでない。さらに、個人的な経験ではあるが、特別支援学校でサポートをしたことがある。そのときに会った重度の障害をもった子供の母親たちはとても明るく、心の内の悩みを顔に出さず、学校の先生とともに子供成長を喜ぶ生き様を見せてくれた。決して毎日がばら色でもなく、悩むことも多く、子供にかける時間や労力はとても重いことが想定されるが、けして暗い顔はしていなかった。
ここからは推論をすることしかできないが、今のような資本主義を極めんとする市場原理社会では、知らず知らずのうちに命に値段をつけているのではないだろうか。自らの年収や生命保険の額、資産の額などなど。しかし、重度の障害を持っている人間は、当然にそのような市場原理主義社会には適合しない。むしろ、市場原理主義の社会においては、存在自体がマイナスだ。それでも、人として生命をもっている。だから、生きているだけで尊いということを実感できるのは、そのような子供の親だけではないだろうか。特別支援学校に行ったときにそのように感じた。
だから、女性が妊娠したときに、生まれる前に障害を持っているかどうかを判断すべきではないのではないか。命の尊さを、障害の有無で判断すべきではないのではないか。そのように考えると、生まれる前に、傷害の有無で出産の判断をするということに、おぞましさを感じた。命を選別するということに、拒否感を覚えた。命を、目先の経済的な価値観に基づいて判断することに疑問を感じた。大切なのことは、たとえ障害をもった人間であっても、人間らしく、人として人生を全うできる社会を作り上げていくことではないだろうか。障害者を差別し、隔離し、国の財政の負担であるという判断をする基準が間違っているのではないだろうか。
以上が、私が感じた違和感である。
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